映像作品の可能性:例えば藤本直明の〈Immersive Shadow〉

視覚の時代と言われています。
文章だけよりもインパクトのあるきれいな写真をプラスした方が多くの人に読んでもらえるそうです。
アートは視覚に訴えるもの。
ならばこの時代においてアートは有利かというとそうでもないと思います。
作家が伝えたい何かを読み解くのに若干の経験と訓練が必要な事は否めませんし、伝わりやすい強いメッセージ性のある作品も限られているからです。
ただそんな中でも映像作品は強い!
映像作品のどこが凄いかと言うと、まず鑑賞者はただ観ているだけでいい、というところです。
観ているだけで映像自からが作品を解説して伝えたいメッセージへと導いていってくれます。

*私の好きな作品に、フランシス・アリスの《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》(1997)や、田中功起の《一つのプロジェクト、七つの箱と行為、美術館にて》(2012)があります。
フランシス・アリスの作品は、別の作品になりますが《川を着く前に橋を渡るな》が東京現代美術館の収蔵作品となっています。また、田中功起の《一つの…》は国立近代美術館の収蔵作品となっていますので機会があったら是非ご覧になって下さい。
   
つまり、座って観ているだけで理解出来、満足感が得られるのです。
そして言葉による解説が要らないという事は国境を容易に超えられるという事でもあります。
もちろん受け手の歴史的背景や現在置かれている環境によって受け取り方は違うけど、それらはすべて織り込み済みで、だからこそおもしろい!

海外では映像作品の所に多くの人が集まる傾向にある様に感じます。
座ってゆっくり見られるというメリットもありますが、現地言語による解説無しで作品に入っていけるというメリットが大きいと思います。

パリのパレ・ド・トーキョーでは拡張された地下スペースでより多くの映像作品が紹介されるようになりました。
整備途中の様にも見えるパレ・ド・トーキョーの地下スペース
 一つの作品に様々な国籍の人たちが集まって見入り、作品からメッセージを受け取って時間と空間を共有している現場に出くわすと、世界平和って案外こんなところから始まるんじゃないの?
などと能天気に考えてしまいます。
N.Y.のMoMA PS1では雲の様な巨大なクッションに埋もれる様に映像作品の鑑賞をしていた
更にここに動きが加わったら?
最近増えてきている映像(作品)を見ながら自分も動ける、自分の動きに映像が(作品が)反応する作品。
オリジナルなもう一つの作品を生む作品とも言えるでしょうか、もはやアートの領域を超えているかもしれませんがそんな作品には鑑賞という楽しみを超えた社会的価値がある様に思います。

例えば、現在も開催中の(8月28日まで)「魔法の美術館 光と影のイリュージョン」に出品中の藤本直明の《Immersive Shadow》、画面の中で緩やかに色々な色の風船が落ちてきます。
画像が映し出されるスクリーンの前で動くと反応する
その画面の前で体の一部を風船に当てる動作をすると風船がふわっと浮き上がります。
動く人は一人でも複数でもOK
映像上なので風船に当たっても痛くありませんし、鑑賞者の緩やかな動きにもゆったり反応してくれます。
逆に素早く反応すれば風船も素早く反応してくれるので、高齢者施設での運動補助にも使えそうです。
更に、面会に来たお孫さんと一緒にボール遊びを、という利用も出来るかもしれません。
こうなってくると工学なの?芸術なの?という論争も起きるかもしれませんが、そのジャンル分けって大事な事でしょうか?
観ているだけでもきれいで癒され、更に良い気持ちで一緒に体を動かす事が出来て、楽しい!
私はこういった社会の中で活用出来そうなものはどんどん活用したみた方がいいと思います。
問題点が生まれたら、またそこで立ち止まって考えればいいです。

ポイントは著作権でしょうか。
アートとしての価値を技術としての権利をどのように守るか、是非クリアにして様々なシチュエーションで展示活用し、アートが持つ力の可能性を現実の中で確認したいです!

魔法の美術館





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