投稿

2015の投稿を表示しています

今年最後に訪れた所

イメージ
今年最後に訪れた所は、スカイツリーが見えるここでした。 リバーサイドカフェ「シエロイリオ」 隅田川の脇の築40年のビル Mirror 内のおしゃれなカフェです。 スカイツリーを眺めながら今年一年の反省をしたら反省だらけ! 気を取り直して周辺を散歩すると、 Nui おかず横丁  ニューヨーク風のカフェに干してる布団がチャーミングな宿泊施設「 Nui 」や、オリジナルノートを作れる「 カキモリ 」、古い商店街「おかず横丁」などがあり楽しい散歩から来年への元気をもらいました^^。 今年もお読み下さりありがとうございました。 来年もどうぞよろしくお願いいたします!

Bruno CATALANOとブルゴーニュの思い出

イメージ
先日、ブルゴーニュから持ち帰ったワインと友人持参のコルシカワイン、カルフォルニアワインなどでプチパーティを楽しみました。 ブルゴーニュと言えば、滞在したボーヌで素敵な彫刻を見つけたのでご紹介します。 Bruno CATALANO さんの彫刻です。 体の一部を欠けさせた状態で作っているので、観る角度によって景色が体の中に入り込んだり抜けたりして見えます。 旅行に行くと、その場の空気や情景がそのまま自分の中にすっぽり入った感じがしませんか? そんな状態をうまく表現している作品だと思いました。 この透明人間の様な男性はこの先どこに向かうのでしょうか、そしてどこを旅するのでしょう? ‘もしかしたらまたどこかで会えるのでは?’とそんな期待すらさせてくれる作品でした。

シャネル・ネクサス・ホール「K2」

イメージ
シャネル・ネクサス・ホール にて石川直樹「K2」を拝見しました。 石川直樹「K2」フライヤーより ‘K2'とは、ヒマラヤ山脈にある世界第2位の非常に登頂が難しい山だそうです。 映像から感じ取れるパラパラ落ちていく氷の粒、一瞬にして白く煙る空気にはシンプル・白といったシャネルのテーマを連想させるものがあり、シャネルの 登頂計画への 出資に納得出来ます。 石川直樹「K2」フライヤーより 町の風景、キャンプの様子など、どの写真にも‘K2’が映っておりこの登頂への執念に圧倒されました。 ドキュメンタリー的な映像や Fresco Graphという特殊なプリントもあり、見応えあり。

見えない都市を見せる

イメージ
東京現代美術館で開催されている 「 見えない都市を見せる"TOKYO" 」 に行って来ました。   自分が聞いていた音楽、見ていた映像が‘こういう時代がありました’と紹介されていて、ちょっとショックを受けました^^。 YMO時代に坂本龍一が着ていた衣装 この企画展は各界で活躍するクリエーターがキュレーターとなり、特に1980年代の「東京」を表現していくものです。 視点が多角的になりおもしろい反面、若干分かりにくくなった感は否めません。 *個人的には社会との関わり方がユニークな スーパーフレックス (デンマーク)にとても興味を持ちました。   観覧後、80年代は分かるけどその後の時代はどんなだったっけ?と自分なりに検証してみました。 所謂バブルが終わったその後です。   記憶をたどっていくと・・・‘エステ’が特別なものでは無くなり、‘整形’もアンチエイジングの流れと共に日常に入り込み、‘プチ整形’という言葉も生まれました。 かなりデコラティブなネールも流行りました。デコラティブと言えば携帯をデコル、ノートをデコルというのもありましたね。まつ毛エクステも流行りました。‘隣りに居そうな子をアイドルにする’という動きもおこり、‘おたく’と言われる人が市民権を得ていったのもこの頃だと思います。 一方、オウムに関係する一連の事件やテロ9・11、阪神大震災や東日本大震災といった自然災害にも多く見舞われました。 パソコンの発達、携帯電話の普及、そして日常がSNSに覆われながら、不安感は社会事件を引き起こし、 経済の低迷と共に人の気持ちが ‘内へ内へ’‘個へ'という流れていった様に思います。 紛争が多発して決していい時代ではない現在、 世の中はどこへ向かっていくのでしょう? 悲観的な見方が大半だとは思いますかが私は 観覧後、新 しい世代が 思いもつかない方法で希望の持てる面白い世界を生み出していくのでは、という 希望を持ちました。 蜷川実花のスペースでは自撮りが出来る撮影ブースが人気。 セルフプロデュ―スに夢中な現代を怪しい世界で表現しています。      

アーティストに払うギャラの意味

イメージ
先日アートに関わる人とのミーティングあり、ギャラの話が出たので今回は改めてその意味を考えてみたいと思います。 日本人は‘お金’の話が苦手です。 そしてお金抜きで働く事は"善行"という観念がどこかにあります。 でもそれがどこかで誰かにしわ寄せをしているのであれば、それは"悪行"でしかありません。 イベントを開催する時やお店を開店する時、絵が上手な人、踊りや歌の上手な人に、 「何か描いて」「ちょっと踊って」「歌って」「ワークショップやって」 はよく聞くフレーズですが、 そこではどのぐらいきちんと報酬の話がなされているのでしょうか? 私はプロの作家、あるいはプロになろうとしている作家に報酬を出してプレッシャーをかけていく事はそのまま作家を育てる事に繋がると考えています。 そしてビックになったアーティストには、育ててもらった環境にたまには無償で奉仕する余裕があってもいいと思いますが、私達は逆の感覚を持ちがちです。 "ビックな方だから報酬を出さなければ!無名の人だから無報酬でいいでししょ、宣伝にもなったでしょうから。"と。 <芸>のレベルにもよるのですが、‘ただ(ノーギャラ)’には落とし穴があります。 なぜなら、”ただ”には”ただ”の価値しかなく、そこからは何も生まれません。 何かを生み出す作業というのは、とても苦しい作業で、アーティストは常にそれと戦っています。 一方、アーティストも人間です。ともすると楽な方に傾きます。 だから適度な強制力、圧力が必要なんです。 例えば「○○日に個展を開催するからそれまでに新作を10点作らなければいけない。」 とか「お題をもらったがそれはいつものパターンでは作れそうもない、どうしよう・・・」など。 その圧力のもと、力のある作家は想像以上の力を発揮していきます。 何をやるにも予算があり、口で言うほど簡単ではありません。 でも、"報酬"をただの"支払い"と考えず、未来のアーティストへの"投資"と考えるとちょっと夢があっていいのではないでしょうか。 もちろん投資するのですから、いろいろ意見を言ったり、注文を付けたりしていいと思います。 そうして、その後の活動も見守っ

フランク・ゲーリー

イメージ
先月ビルバオを訪れた際、「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」が 写真などで見ていたイメージとは大きく違って気になっていたので、復習を兼ねて 21_21DESIGN SIGHT で開催されている『建築家フランク・ゲーリー展』に行って来ました。 会場に入るとすぐ、映像で代表作の「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」(ロサンゼルス)、「ルイ・ヴィトン財団」(パリ)、「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(ビルバオ)が紹介されています。 かっこいい映像ですが「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」はやはり私が感じた印象とは違いました。 現地で感じた外観のフォルムは周囲の山並みと呼応する形で、傍の橋と共に金属の材質ながら不思議と景色と融合していました。 もっとのどかな印象というのでしょうか。  ビルバオで実際に見た「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」 「ルイ・ヴィトン財団」へは行った事ありませんが、きっと同じ様に"あの外装が周りの緑を映し出すのだろうな~"と想像しました。 展示室に入るとゲーリー自邸の模型や事務所の映像の他、多数の模型があり、その数の多さ、素材の多様さから〈模型からつくる〉〈模型から考える〉という彼の言葉に説得力が加わります。また、 自邸の模型や映像では、たてものの中から外を見る時に何を見たいのか、その為にどの様に景色を切り取るのか、という事が浮き彫りになっていました。  ダンボールで彼がつくったという椅子もあり、 実際に座れます ぐるっと観て周ると、彼の制作姿勢、こだわりは理解できます。 でもやはり建築は実際に現場でみなければ! という事で、今度自分の目で確認すべき建築はパリの 「ルイ・ヴィトン財団」だな、と チェックしていたらテロが起きました(!) 事の大きさに驚いていますが、ただただ犠牲にのなられた方々のご冥福と傷付いた方々の回復をお祈りするばかりです。 * ESPACE LOUIS VUITTON  でも「フランク・ゲーリー/Frank Gehry パリ-フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展」が開催されています。  「ESPACE LOUIS VUITTON」での展示    

建築とはかくあるべき?「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」

イメージ
建築とは? 色々意見はあると思いますが、私は<たてもの>という かたち を使って 用途 として求められているものを 過不足なく提供 するのが建築なのでは、と思っています。 そこに作り手の主張が必要以上に入り込むと、それはもう建築ではなく‘立体’という作品になってしまうのではないでしょうか。 そういった私見に基づくと、先日訪れた栗生明氏による「 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 」は、‘建築はかくあるべき!’と感じさせてくれるものでした。 「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」は長崎の原爆で亡くなった方々の哀しみ、苦しみを受け止め、祈りを捧げ、想いを未来に繋げていく場所です。 ここではそれらの用途すべてが過不足なく見事にかたちで具現化されていました。 地上には半透明の2つの立体と水盤しかありません。 水盤は原爆で亡くなられた方々が求め続けた‘水’を現しています。 そして暗くなると水盤の中に約7万個(長崎の原爆で亡くなった方の人数)の明かりがともります。 祈りをささげながら水盤の周りを歩いていくと地下への入口に辿りつきます。 そこでもう一度まっすぐ水盤の方に目を向けると、その先が原爆落下の中心地点になります。 祈りを捧げながら階段を下りて地下入口に向かいます。 地下の追悼空間には半透明の12本の柱が立っており、その向こうに亡くなられた方々の名簿が納められています。 柱は明るい方へ、上へ、空へと向かっており、最終的には地上部分に出ていた2つの立体に覆われます。 私たちはその柱の間を歩き死者の気持ちに寄り添い、 見上げながら 気持ちを受け継ごうと祈りを捧げられます。 静かで無駄なものが何もない空間で私は不思議な気持ちになりました。 時空を超えて会話すべき誰かと、何かと繋がった感覚を得たのです。 それは建物に宿る力によるものだと思います。 写真も悪いですし私の拙い文章ではなかなか伝わらないと思いましたが、きちんと<たてもの>としての役割を果たしている建築に出会い、感動したので書かせてもらいました(^ ^)

小値賀島で古民家に宿泊

イメージ
小値賀島では『 古民家スティ 』をしました。 『古民家スティ』とは、使われていない古民家、武家屋敷などを東洋文化研究家のアレックス・カー氏による改装で一棟貸しするという小値賀の新しい試みです。 これは現代の空き家問題とも重なりとても注目すべきシステムだと思います。 私は港近くの「先小路」に宿泊しました。 玄関 リビングは2階で、家具などもある 屋根までの柱の組み方が分かる 快適に過ごせるようにソファなども設置 キッチンには調味料やお茶・コーヒーなどが用意されており、冷暖房完備、お風呂はキッチンのボタン一つで用意が出来、 洗濯機もあり ます。 古くても良い所は残しながら、ホテル並みの設備は整っているのでとても快適に過ごせました。 そしてこの試みは、古い価値のある建物を上手に活用しながら残していく体験が出来る良い機会でもあると思いました。 小値賀にはこのほか、『 民泊 』というシステムもあります。 こちらは島の民家に宿泊して、日常の食事や生活を体験できるというものです。 野崎島のツアーでご一緒した伊是名島の方々が民泊を体験されて楽しそうでしたので、今度はこちらも体験してみようと思います。 「古民家の利用」という点では、 『商家尼忠東店(しょうかあまちゅうとうてん)』もありました。 明治41年に建てられ町に寄贈された商家:尼崎家本店を、町が改修して公民館の様に利用しているのです。旅行者も利用できます。 パンフレットなども置いてあるので、休憩や町の方々との交流にも良い場所なのではないでしょうか。 説明を追加 島を訪れて、独特だな〜と思っのは[放送]です。 欠航のお知らせなどは、朝早くから島中に流れます。 「防災センターからのお知らせです!・・・」で始まるので初めはびっくりしました^_^; ‘抜港(ばっこう)’という言葉もここで初めて知りました。 また、月初めに「今日から新しい月の始まりです!先月の反省をふまえて新たな…」という趣旨の放送が流れたのにも驚きました^^。 もしかしたら、この放送が島の一体感を生み出しているのかもしれません。 ところで、日本には島がどのぐらいあるかご存知ですか? なんと6852(海岸線が100メートル以上のもの) あり、そのう

小値賀島

イメージ
先日旅をした五島列島の中で、一番印象に残ったのが「野崎島」と「小値賀島」です。 小値賀島は九州の西にある小さな島で、正式には周囲に散在する17の島々(野崎島もその1つ)からなっています。 *17の島のうちの斑島と黒島へは小値賀本島と橋で繋がっています。 行き方は、現在小値賀空港は閉鎖されているので、博多港(宇久島経由)か佐世保港か中通島から船になります。 この素敵な島の魅力をどこからお話したらいいかと考えているうちに何日も日にちがたってしまいました。 そのぐらい魅力的な島です。 山が多い五島列島の島々の中でこの島はほぼ平地です。 その為か町には他を受け入れる風土があり、何処でも皆、気さくに声をかけてくれます。 中学生はすれ違う時に大きな声で、「こんにちは!」と挨拶してくれますし、町中で地図を広げると必ず誰かが「どこに行きますの?」と心配してくれてなんかほっとします。 町の顏は何と言っても 「小値賀港」 この島の入り口です。 そして港には 「 おぢかアイランドツーリズム 」 があり、観光に関することはすべてここで事足ります。 私もここに何回足を運んだか分かりません。最後は「今日は風は強いですか?」なんて質問をしに行った程です。そんな時も、 「午前はまあまあですがお昼頃から強くなりますから、自転車は向きません。島を廻るなら車がお奨めです。レンタカーの手続きはされますか?」など、テキパキ対応してくれました。 *この天気予報が当たるんです! そしてもう一つこの島を訪れたら真っ先に立ち寄りたいのが 「小値賀町歴史民俗資料館」 です。 ここを訪れれば、係の方がほぼマンツーマンで説明して下さり、小値賀の歴史、古代から現在の祭りまでがよ~く分かります。 *私が訪れた時は人が少なかったので入場料¥100でお茶とお菓子付きでした^^。 訪れる前にアイランドツーリズムに問い合わせた時、いつも返信の最後は 「小値賀は何にもない島ですがゆっくりしていただければ・・・」でした。 それを知った上で行こうとしているのでいいのですが、あまり毎回言われるとそんなに"な~んにもないの?"と不安になります。 どきどきしながら訪れてみると、おもしろいおもしろい! マンホールの鹿の絵も、 草原に座って目の前に広が

軍艦島

イメージ
念願の軍艦島に行って来ました! 世界遺産候補で注目を集めている軍艦島を私が初めて知ったきっかけは、2012年に開催された東京都写真美術館での企画展でした。 『映像としての冒険vol.5 記録としての映像』展の 出品作家の1人としてベルリン在住のアーティスト:ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニが映像作品「Spelling Dystopia」(2009)で、‘軍艦島’を取り上げていたのです。 "こんな島があるんだ…知らなかった、行ってみたい!"とそれ以来ずっと思っていました。 軍艦島は皆様ご存知の様に、正式名称:端島(はしま)で、炭鉱産業の為に増設して作られた島です。 日本初の鉄筋コンクリート高層住宅が造られたところでもあり、学校・保育園・病院・映画館まであり、最盛期は東京都の9倍もの人口密度があったそうです。 現在は無人島です。 よって個人で訪問・上陸と言う訳にはいきません。 上陸するにはツアーに参加する必要があります。       今は申し込みが多く予約を取るのも大変な状況ですが、ツアーに参加出来ても"上陸"そのものにも関門があります。 それは、軍艦島の港まで行けても風が強いと上陸出来ないのです。 通常の島だったら上陸出来る状況でも人工港では難しいそうです。 でもこればかりはお天気次第なので祈るしかありませんね(^ ^) 今回、私達は運よく上陸出来ました! 詳細については実際に訪れていただきたいのであえて書きませんが、今後の島の状況については、コンクリートの劣化を止める方法など、まだまだ未開発の事も多く、いつまでこの状態を保存出来るのかは不明だそうです。 また、当時の労働実態の問題など、 単に‘こんな島があったんだ、すごいね!’で終わらせてはいけない事実があった事も確かです。 ガイドさんもおっしゃっていましたが、実際に島を訪れ、自分の目で確認し、感じ、更に必要であるならば調べ、こういう島があったという事実とその実態を自分の中に落とし込み、各自が考え消化していく事が大事だと訪問してみて思いました。 ツアーへの参加の仕方や様子などは、 「ISLAND TRIP さんのブログ」  がとても参考になるのでお勧めです。3つのツアーの内容が詳しく解説されており、私も参考にしました(

五島列島の教会ーステンドグラス

イメージ
五島列島を旅して来ました。 目的は 以前より日本の初期教会建築に興味があり、 キリスト教解禁となった後に建てられた教会を観る為です。 久賀島 旧五輪教会堂(1881年建設) 旅は素晴らしいものでした。 「百聞は一見にしかず」 旅の度に感じる事です(^ ^) 詳細は追ってお知らせするとして、今回はステンドグラスの事に触れます。 *教会内部では、写真撮影が禁止されているので、ご案内は旧教会や資料写真からとなります。 〈ステンドグラスで表現されたものに関して〉 おそらく当時(19世紀後半)の日本にはステンドグラスの高度な技術が無く、また高価なガラスの輸入もままならなかったのでしょう、"教え"をステンドグラスで表現する事はなく、キリストや十字架を象徴する模様が用いられていた事が大きな特徴に感じました。 中通島 青砂ヶ浦天主堂(1910年建設)資料館写真より 西洋では、字が読めない人も分かる様に、イエス・キリストの受難などをステンドグラスで表現する事が多いのですが、こちらではそれを絵で描き、各場面に分けてステンドグラスの上に設置していました。 中通島 旧鯛ノ浦教会(1903年) 美しいステンドグラスで有名なフランスのサント・シャペル教会は13世紀に建てられていますから、日本のステンドグラスの歴史はかなり浅いと言えます。 〈ステンドグラスの色に関して〉 ガラスの色は、海・植物・太陽を象徴する青・緑・赤・黄が多用され、自然崇拝に近いものを感じました。   〈ガラスの溶接に関して〉 通常ステンドグラスは色ガラスを鉛で溶接して"絵"を作り上げていきますが、色ガラスや金属は貴重だったのでしょう。 繋ぎは木であったり、無地のガラスにわずかな色素で模様を描いている教会(奈留島 江上天主堂)もありました。 木枠のステンドグラスはカラー和紙を使った欄間の様で、極めて日本的だと思います。 中通島 旧鯛ノ浦教会(1903年) *ステンドグラスとは離れますが五島列島の教会では、聖母子像は殆ど無く、ヨセフがキリストを抱いている像が多く、男尊女卑、あるいは長男家長制といった日本のしきたりと関係があったのでしょうか? 自然の中に静かにたたずむ教会群は西洋のものとは明らかに違い、