建築とはかくあるべき?「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」

建築とは?
色々意見はあると思いますが、私は<たてもの>というかたちを使って用途として求められているものを過不足なく提供するのが建築なのでは、と思っています。
そこに作り手の主張が必要以上に入り込むと、それはもう建築ではなく‘立体’という作品になってしまうのではないでしょうか。
そういった私見に基づくと、先日訪れた栗生明氏による「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」は、‘建築はかくあるべき!’と感じさせてくれるものでした。
「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」は長崎の原爆で亡くなった方々の哀しみ、苦しみを受け止め、祈りを捧げ、想いを未来に繋げていく場所です。
ここではそれらの用途すべてが過不足なく見事にかたちで具現化されていました。

地上には半透明の2つの立体と水盤しかありません。
水盤は原爆で亡くなられた方々が求め続けた‘水’を現しています。
そして暗くなると水盤の中に約7万個(長崎の原爆で亡くなった方の人数)の明かりがともります。
祈りをささげながら水盤の周りを歩いていくと地下への入口に辿りつきます。
そこでもう一度まっすぐ水盤の方に目を向けると、その先が原爆落下の中心地点になります。
祈りを捧げながら階段を下りて地下入口に向かいます。
地下の追悼空間には半透明の12本の柱が立っており、その向こうに亡くなられた方々の名簿が納められています。
柱は明るい方へ、上へ、空へと向かっており、最終的には地上部分に出ていた2つの立体に覆われます。
私たちはその柱の間を歩き死者の気持ちに寄り添い、見上げながら気持ちを受け継ごうと祈りを捧げられます。
静かで無駄なものが何もない空間で私は不思議な気持ちになりました。
時空を超えて会話すべき誰かと、何かと繋がった感覚を得たのです。
それは建物に宿る力によるものだと思います。

写真も悪いですし私の拙い文章ではなかなか伝わらないと思いましたが、きちんと<たてもの>としての役割を果たしている建築に出会い、感動したので書かせてもらいました(^ ^)





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