【アート通信ー38:「サントミューゼ」とハリー・K・シゲタ】

「サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館)」がある長野県上田市は軽井沢からローカル線で1時間弱の位置にあります。
38回目のアート通信はこちらで出会った素晴らしいコレクション展を中心にお伝えします。

サントミューゼは大小ホール、美術館、交流芝生広場などから成り立っており、2014年に開館しました。

広い芝生は子供を遊ばせる人やお弁当を食べる人など憩いの場になっているようです。

今回出会った素晴らしいコレクション展はこちら、写真家、ハリー・K・シゲタ(1887-1963)の写真展「Photographyー光で描く世界ー」です。


ハリー・K・シゲタ、日本名:重田欣二はこの上田の地に生まれ、15才の時に憧れから親戚を頼ってアメリカ・シアトルに渡ります。渡米後はアメリカ社会に同化する為、ハリーと名乗りました。

渡米は唐突なようですが、クリスチャンの家庭に生まれ3才で洗礼を受けた彼にとって、海外はイメージとしてはそう遠く無いところだったのかも知れません。

渡米翌年の1903年よりセントポールの美術学校に通い始めます。そこでデッサンの遅さを補うために使ったのがカメラでした。これをきっかけに写真スタジオでのアルバイトなどで修整技術などの専門技術を習得し、アメリカで大きな信頼を得た国際的商業写真家となっていきます。

3年間学んだ美術学校での成績は、作品がお手本に使われたほどですから優秀だったようで、写真家として活動する前にドローイング、彫刻、絵画、イラスト、デザイン、工芸、装丁など幅広い美術を学んだ事が、彼を特別な写真家へと導いたと言えるでしょう。

1910年よりロサンゼルスで肖像写真家として、また写真スタジオで修整家として働き始め、更に1920年からはハリウッドで映画スターを撮り始めます。

そんな時代の彼の作品がこちらです。

「暮色」1923

写真というより、日本画のような作品で、女性のヌードを月に乗せて表現するなど、戦前の作品とは思えない技術とデザイン力、まさに絵画のような写真です。

1924年からはシカゴの〈モフェット・スタジオ〉で修整の仕事を経て商業写真部門の責任者となり、広告写真などを手がけます。こちらがその頃彼が手がけた高級石鹸の広告です。もはや広告の枠を超え、物語性のある芸術作品のようですね。

「Blue Rose」1925

そして1930年にはシカゴで、カメラ仲間のジョージ・P・ライトと共同で〈シゲタ・ライトスタジオ〉を設立し、ニューヨークに支店を開設した日本の宝飾店ミキモトの広告写真やアメリカの一流企業の広告写真を数々手がけていきます。

彼の美しい写真、そして確かな技術、誠実な人柄はしっかりアメリカ人の心を掴んで離しませんでした。それは1941年、太平洋戦争が勃発した際、周りのアメリカ人たちが署名運動をして彼が働ける特別許可を得てくれた事からも分かります。

1942年にはアメリカ写真連盟よりマスター・オブ・フォトグラフィーの称号を得、1949年にはアメリカ写真協会名誉会員となります。生存中に名誉会員になったのは5人だけだそうで、このことからもどれだけ彼が認められていたかが分かります。さらに1951年にはスミソニア博物館にて個展を開催し、12点が永久コレクションとなりました。

終戦後の1954年に、彼はアメリカ国籍を取得します。戦時中たくさんのアメリカ人に助けられ、また敵国の日本人でありながら彼を差別する事なく写真家として仕事をくれたアメリカ社会に対する恩返しの気持ちと忠誠の気持ちがあったのでしょう。
「これで腰掛け的な気持ちがなくなった。」「私の使命はカメラによって貢献する事」と彼は言っています。

1963年引退後移り住んだロサンゼルスにて75才で永眠するまで、彼はプロ・アマチュアの隔てなく後輩の指導にも熱心に取り組みました。
「私が学んできたことは全て社会のものである」彼が言ったこの言葉は他人に対して何ができるのかを常に考える彼の姿勢をそのまま表しているのでは無いでしょうか。

現在ハリー・K・シゲタの作品は、国内では東京国立近代美術館、上田市立美術館にてコレクションされています。


上田市についてはこちらをご参照ください。
真田だけじゃない!長野県上田市で見て食べて体験する旅!




















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