【アート通信ー50:擬洋風建築】
50回目のアート通信は「擬洋風建築」です。 「 擬洋風建築(ぎようふうけんちく) 」、漢字では ‘洋’ を真似た「洋風」に擬した建築となり、何事?という感じですがざっくり言うと、 西洋建築由来の形を持ちながら洋風・和風、時には中国風の要素までもが混じり合った建物の事で、明治時代に全国各地で盛んに建てられました。新しい時代の勢いを感じますね。 そしてそのほとんどは有名建築家ではなく、海外渡航歴の無い地元の大工により建てられました。彼らは見よう見まねで挑戦しながら、今まで無かったデザインを生み出していったのです。焼失、取り壊しにあったものもありますが、現存し公開されている建物も多々あります。 長野県「旧開智学校」 列島宝物館より 例えば、国宝指定されている小学校、「 旧開智学校 」(長野県)は、明治9年に地元の大工棟梁、立石清重の設計で建てられました。経験のない立石は、すでに洋風建築が存在していた東京や横浜に赴き夢中でスケッチし、日本の伝統技術を駆使してこの美しい建物を建てました。石積みのように見える箇所は実は石ではなく、漆喰に色をつけています。 「旧岩科学校」 そして「旧開智学校」と姉妹館提携をしているのがこちらの小学校、「 旧岩科学校 」(静岡県)です。明治13年に建てられました。地元の大工棟梁、 菊地丑太郎、高木久五郎の設計・施工です。神社のようなスタイルですが中央のバルコニーが異質です。そして目を引くのが、両脇下部のバッテン印のなまこ壁。漆喰を用いた この 美しい デザインは、防火の役割も果たしているんですよ。国指定 重要文化財です。 「旧岩科学校」正面玄関 地元出身の左官名人、入江長八の雄大かつ優雅な鏝絵が施された2階の1室 学校建築に擬洋風建築が多いのは、明治に入り学制が敷かれ、教育熱が高まったのと同時に、中央に追いつけ追い越せの精神が相まり各地方が競うように建てた為だそうです。 「旧済生館本館」中庭 公共の施設でも多くの擬洋風建築が建てられました。現在、霞城公園内に移築され「山形市郷土資料館」として利用されている「 旧済生館本館 」(山形県)は、明治11年に県立の病院として建てられました。外壁には漆喰だけでなく、板を重ねた板張り「下見板」にペンキを施した手法も用